六古窯~信楽~
こんにちは M美です (^-^)♪ やっと梅雨明けしましたね!
今回は信楽焼について調べてみました。
信楽焼の歴史についてですが、信楽焼は、滋賀県信楽町を中心に作られた近畿地方を代表する窯地です。
天平14年、聖武天皇が紫香楽宮の屋根瓦を焼かせたのが始まりとされています。
当時は壷や鉢の日用品を中心に制作されており、室町時代、桃山時代に入ると茶道の始まりとともに茶人に愛され、茶道具に使われるようになりました。
桃山時代の信楽陶器を代表する水指として東京国立博物館に収蔵されている「一重口水指」(柴庵)があります。
こちらは千利休が所持していたと伝えられているそうです。
こんなにも歴史の古いものが残っていて、しかも誰が所持していたかがわかっているなんて昔の人々の物を大切に扱う気持ちには驚かされます。
私が信楽焼に持つイメージは素朴でざらざらした質感ですが、信楽焼にはこのような特徴があります。
・釉薬をかけずに焼き、灰が溶けて自然に釉薬をかけたようになる
・焼成することにより表面が赤くなる
・薪の灰に埋まる部分が黒褐色になる 信楽特有の土味が素朴で暖かい情感を出しているんですね。
そして信楽焼といえばやはり真っ先に思いつくのがタヌキの置物! とぼけた顔をしていて愛嬌がありますよね。
憎めないこの姿かたちは「八相縁起」と呼ばれる縁起を表していて、身につけているもの一つ一つにちゃんと意味があることを最近まで知らなかったのでちょっと驚きました。
このタヌキ像は京都の陶芸家、藤原鉄銕造が信楽に移り制作しはじめて信楽の顔となったそうです。
そして昭和26年、昭和天皇が信楽を訪れた際に旗をもったタヌキの置物たちが沿道に並んでお迎えしたことにより全国に知られるようになりました。
信楽焼の代表作家、古谷道生は信楽焼と伊賀焼を作陶し、窯の研究にも励んでおり、信楽と伊賀に生涯で30基もの穴窯を作ったといわれています。
築窯の名人でもあり、新しい信楽焼、伊賀焼の探求に尽力した作家として広く知られ、「穴窯―築窯と焼成」などの著作も残されています。
残念ながら54歳という若さで惜しまれながら逝去しましたが、現在はご子息である古谷和也さんも陶芸家をされています。
古谷道生 作 信楽徳利
詳細は写真をクリックしてください
2015年07月21日 | コメント&トラックバック(0) | トラックバックURL |
カテゴリ: 未分類
京都府京都文化博物館 大関ヶ原展
こんにちは。 ジメジメとした天気が続きますね。
先日、京都府京都文化博物館で開催されている、 徳川家康 没後400年記念特別展【大関ヶ原展】に行ってまいりました。
天下分け目の大決戦として有名な「関ヶ原の戦い」は歴史を詳しくない方や、歴史なんて興味ないよという方でも 名前くらいはご存知なのではないでしょうか? それくらい、以後の日本の道筋を決定する戦いでした。
安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)、現在の岐阜県不破郡関ヶ原町辺りを主戦場として行われました。 後に江戸幕府を開く、徳川家康を総大将とする、「東軍」と毛利元就の孫である毛利輝元を総大将とする西軍との激突。 長期に渡る戦いと思われと思われたが、意外に1日で決着してしまいました。
戦い自体は一日で終わりましたが、この展覧会では、決戦に至るまでの石田三成等の書状といった資料や関ヶ原の戦いをに付随する周辺の戦い等も 紹介されています。決戦に至るまでの手紙は当時の危急存亡の秋に武将達の緊迫したやり取りを今も私達に伝えます。
井伊直政・本多忠勝や立花宗茂など参戦した武将達が着用した鎧や兜・刀は必見です。 武具以外でも家康の金扇馬標は2メートルを超える大きなもので家康が在陣していること示していますが、 大変存在感があっただろうと思います。 また、数々の屏風も武将や名も無き兵士達の息遣いまで、伝わってきそうな迫力あるものも一堂に観る事ができます。
歴史に「if」はありませんが、西軍が勝った場合はその後の日本の構造はまた違ったものになったのだろうか?と 色々と童心にかえって楽しむことができた展覧会でした。
来年の大河ドラマは人気俳優の堺雅人さん演じる「真田幸村」ですね、関ヶ原の戦い後の大阪夏の陣等で活躍しますが、 この展覧会で是非、戦国時代の終わりを告げる戦いに参戦してみてはいかがでしょうか。
2015年6月2日~7月26日
2015年8月7日~10月4日
2015年07月01日 | コメント&トラックバック(0) | トラックバックURL |
カテゴリ: 美術館