吉向焼

吉向焼

初代吉向治兵衛は通称亀次、伊予国大洲の生まれで、父帯屋武兵衛は砥部焼の陶工であった。明和(1764~72)初年に京都にでて陶法を修め、のち大阪の十三に開窯した。初め亀次の何因んで亀甲焼と称したが、大阪寺奉行水野候から吉向号を拝領して以降吉向焼を名乗った。作品は交趾風を主とするが、染付けもあり、陶技や意匠に優れ、近世屈指の名工である。十三時代には片桐右州にも愛顧を賜り、止々簷の号を拝領している。のちには江戸に移ったが、その名声はいよいよあがり、周防岩国藩主吉川候・美作津山藩主堀候からも招かれて、それぞれ御庭焼を焼いている。号には右のほか十三軒・吉阿などがあり、吉向・十三軒・出藍・連珠・紅翠軒などの印銘を用いた。1861年江戸で没した。初代治兵衛の江戸での養子が、江戸吉向となり、大阪吉向は亀治によって継がれその後五代目となって、松月軒吉向と十三軒吉向の二家に分かれた。現在の東大阪市日下町の十三軒と枚方市の松月軒とがそれである。なお江戸吉向は明治に入って廃窯している。

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