井戸脇
井戸茶碗の一手。朝鮮産。井戸脇は青井戸の脇、すなわち青井戸よりも粗品であるとされる。『茶器目利聞書』に「後渡りを井戸脇といふ」とあり、『名物目利聞書』には「井戸脇といふもの井戸に似て夫に及ばぬものなり、されども目のある様数々これあり、いやしき処有之、木地も井戸よりかしましき心有之、井戸脇と申名聞、何の申伝ふるにや」とある。『高麗茶碗と瀬戸の茶入』によれば「釉だち鼠色がかれる黄色みのある青き色合いにして堅く滑らかなる趣あり、しかして中位のひびなきものもあり」とある。『大正名器鑑』には毛利候の旧蔵で楽善が拝領したもの、薮内家伝来のものの二碗を載せている。
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伊羅保
古くから高麗茶碗の中に挙げられるが、中国製も、また南蛮物も混じっているといわれる。横に轆轤目の跡が際立ち、土の中の小石が火にはぜて、釉が荒れ手触りがいかにもいらいらしたものである。真清水蔵六の説は伊羅保は慶尚南道産であるとする。近年同地方で発掘した陶器にしばしば類似品を見るので、この説はほぼ信用できる。伊羅保は非常に種類が多く、古来茶人の称呼に千種、片身替り、釘彫、黄または黒伊羅保などの区分がある。後年釜山窯や対馬窯でその作品を模倣したものもこの中に混同したので時代に新旧があり、産地もまた諸方に分在している。その作品は粘土の中に雅致があり、最も茶人の間で愛翫された。名称については粗作で見た目にも手触りにもいらいらまたはいぼいぼする感覚があるので、通俗に伊羅保と呼び慣したものではないかといわれている。なおこの茶碗については茶人間に不思議な習慣があって、その素質の粗雑なのにも関わらず微細な疵をも嫌い、他の井戸茶碗などでは堅樋または疵繕いなど意に介さないのに対して、疵では最も厳重に嫌忌し、疵の有無が価格に関係することが他の茶碗と比べ物にならないのは、素質が粗雑であるためことさらその保存に万全を期する意味ではないだろうか。
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伊万里焼
肥前国伊万里港を経て販売された肥前産磁器の総称で有田焼を主とする。ただし三河内焼は平戸藩領であったため平戸焼と称して別にした。有田はわが国における磁器創始の地であるため、他の地方から工人が来てその技術を窺うものが多かった。そこで佐賀藩では他国の陶商が産地に入ることを固く禁じ、販売市場は伊万里の地に限られた。そのため有田内外山の製品はおおむね伊万里を経て搬出されたので、世に伊万里焼と称せられた。明治維新後伊万里は単に輸出港であるに止まらず、進んで産出地ともなった。1895年の本岡佐吉をその始まりとし、次いで陶器商の合資による磁器窯があり、1903年には柳瀬六次が起業した。
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カテゴリ: 陶器用語
伊藤陶山
京都の陶工。1846年山城国愛宕郡粟田領に生まれた。幼名を重次郎、後に幸左衛門、1895年1月から号の陶山を本名とした。1863年18歳のとき、習画の師、小泉東岳の勧めにしたがって陶事に転向し亀屋旭亭に入門、続いて三代高橋道八、村田亀水、幹山伝七、帯山与兵衛、一文字屋忠兵衛、岩倉山嘉兵衛らの指導を受け、さらに広く各地の窯を見学して1867年京都の白川畔で開業。1873年山城朝日焼の復興に尽力、1884年粟田陶磁器組合長に推され、1891年かねてから研究していた本焼絵付の技法を完成し粟田本来の特質を発揮して賞賛され1896年京都陶磁器同業組合の頭取となって陶磁器試験場と伝習所を設立させた。1898年辞職、翌年6月に六月緑綬褒章を受け、さらに1912年久邇宮邦彦王から「陶翁」の号と共に金銀印を賜った。1917年六月帝室技芸員に任命された。1920年滋賀県膳所焼を復興。古希を過ぎてから洛東鏡山の麓に新窯を起こす決意をして同年9月22日開窯、その二日後に76歳で死んだ。晩年旧膳所藩の本多久信を養嗣子に迎えた。
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カテゴリ: 陶芸家
安南焼
安南(ベトナム)かた渡来したやきものの称。わが国と安南は室町時代の後期から江戸時代の初期にかけて相当の交通があり、この船で運ばれたやきものも東京・安南・占城地方で産出されたものであろう。『万宝全書』には「安南は染付の色あしくから物の下品なり云々、今渡りの類は沢山にして珍とせず、古きは重宝とす、道具模様いろいろなれども元来下手ものなり、水指、ふか鉢等多くは絵あり云々」とある。昔から安南ものとして茶人の間で愛玩されているものに無地安南と呉須安南の二種がありどちらも侘びた趣に富んだものである。安南焼はすべて輪焼きで、土は白色、地釉は青みがかった中にやや黄色がかった色合いである。模様のないものは無地安南と呼ばれ伝世品はまれである。普通の製品には文字とも模様ともわからないものを呉須で描くため呉須安南と呼ばれ上製のものには釉ひびはない。安南焼として伝えられるものには染付けのほかに青磁、赤絵安南もみられ器物としては安南呉器、安南啜香などがあり、さらに安南織部、安南絵高麗、安南絵堅手などに小分けする。わが国の安南写しとしては陳元贇の御深井焼が有名であり、ぼやけた染付けではあるが近代陶業者の安南焼は交趾焼が硬化したようなもので、伊賀、信楽、播磨国、明石などから製出された。これらは粗陶器の上に不透明な青または緑の地釉を掛け、その上に白泥で暦手様の盛上げ文を描いている。たぶん交趾焼の装飾手法から転化したものとみられる。
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粟田口焼
京都粟田口の陶器。元和(1615~24)あるいわ寛永(1624~44)初年に瀬戸の陶工三文字屋九右衛門が京都に来て粟田口三条通り蹴上(東山区)に築窯し、その子庄右衛門が、助右衛門および弟子、徳右衛門らと共に製陶したのが粟田焼の起こりとされ、京焼では最古の窯とされている。しかし、記録から見ると、その開窯はおそらく慶長年間(1596~1615)を降らぬものとみてよい。主に茶入、茶碗などの茶器を焼き、特に唐物茶入や呉器手、伊羅保手などの写しに特色をだしたようである。また向付の類には錆絵や錆絵、染付併用の淡雅なものが多い。一見仁清風の信楽手もあり、俗に粟田口仁清といわれている。狭義の粟田口焼きは元禄(1688~1704)頃まで続いたようである。「粟田口」印があるがこれには二種ある。
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阿漕焼
伊勢国(三重県)津の安東焼を復興したもので、再興安東焼とも呼ばれ倉田久八の開窯。久八は宝山藤樹に陶法を学び、初め安東焼の窯跡のある愛宕山の下で窯を始めたが失敗。そこで京都の松風亭に入門し、1853年に前業を継ぎ、文久年間(1861~4)に津の船頭町に移った。銘印は古安東の破片にあった「安東」の文字を用い、また藩候から賞賜された「再興安東焼」の印を使ったとも伝えられる。久八はこの事業で家産を傾け、また廃藩置県後藩の保護を失ったため1875、6年頃製品の中国輸出を企てたが失敗。この頃から安東焼とは言わず阿漕焼というようになった。おそらく船頭町が阿漕ガ浦に近いことから出たものであろう。しかし次第に経営が困難になり1887年頃窯をもと工場の職工長であった市川岩吉に譲り、久八は山田(伊勢市)に赴きのち京都の清水で没した。その後市川岩吉の窯は岩田川の北岸に移ったが由緒を惜しんだ同地の有志によって1900年に株式会社組織となり、大量生産を企てたがたちまちに失敗し解散となった。市川の弟子の小島弥吉があとを受け継いで大師山に窯を築き土産物をつくった。田中治郎左衛門はこの衰減を嘆き京都から技師を招いて再興を企てたが思うようにならず、1925年廃絶した。その製品は酒器、煎茶器、花瓶、皿などで古万古風を模したといわれるが、また別に久八の工夫で真鍮線の象眼を施した象眼焼と呼ばれるものも製出した。その後1931年伊賀丸柱の陶工福森円二によって復興され現在に至る。
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