2010年03月の記事一覧

景徳鎮

江西省饒州府浮梁県にある中国最大の窯のひとつ。青白磁・青花・釉裏紅・五彩など多彩な磁法をもって宋以降の中国陶磁史の根幹をなしたことは周知のとおり。史伝では漢代にその起源があったとしているが不詳。唐代にはいってから昌南鎮窯の名で世に知られ、白磁と青磁を産したらしい。その窯場として楊梅亭・石虎湾の二窯が戦後中国の調査で明らかとなったが、越州風の青磁と純白に近い白磁を産したというだけで詳細は不明。景徳鎮の名は、この地が宋代の景徳年間(1004~7)に佳器を産した事から発したものであるが、その佳器とは世に影青(インチン)と呼ばれている青白磁の類である。純白の磁土に微かな鉄分の還元した青白色の透明釉が掛かったもので、多く還胎に陰刻・陽刻・などの彫文をもつ。瓶」・壷・水注・香炉・合子・鉢・碗・皿などあらゆる器をつくり、極東というに及ばず東南アジア・オリエント・地中海域まで盛んに輸出するくらい大量生産した。南宋になってからの青色磁は作りが厚く、文様を乱れ気味で、ややその磁器は退潮した趣がある。それには同地域の竜泉窯が砧青磁と呼ばれる美しい青磁を産して貿易面でイニシアティブをとったことと、二つの南宋宦官が微妙極まりない釉色の青磁を生み出した事が作用したからであろう。しかし、元代に入ってから景徳鎮は再び活況を取り戻し、乳白色の柔らかな釉調を持った白磁の生産を進めていく。形押しなどの文様がある点は宋代の軌を踏んでいるが、それも厚みのある釉におおわれて穏やかな表現になることを意識しているかのように見える。この種の白磁の鉢に型押しで枢府の銘のある例が知られているが、これは元朝の御器で当時の最高級のものといってよいだろう。やがて景徳鎮の陶工は何らかの機縁で、この白磁の釉裏にコバルトまたは酸化銅で文様をつけた青花と釉裏紅の磁器を開発し、以後の中国陶磁史の大主流を形成してゆくことになる。

金襴手

陶磁器の肌にあたかも金襴のように金色で描かれた文様のあるものを金襴手と称する。この金彩模様は中国では古く宋代から用いられはじめたらしく、黒定や柿定・白定・天目などの茶碗の内面に金箔を切って文様としたものを焼き付けた例が見られる。朝鮮の高麗青磁にまれに金彩のものがあるのは宋の影響であろう。この金彩は元末から明にかけて景徳鎮の磁器が栄えるにつれてしばしばその肌を飾るようになり、嘉靖(1522~66)前後の輸出用磁器において空前の盛況を呈した。それらの主流を占めるのは色絵磁器で、色絵の碗や仙盞瓶の要所に金彩を配して豪華絢爛の趣を発揮させている。この手のものを普通赤絵金襴手と称するが、色無地の上絵の肌にこれのあるものを下地の色に従って萌葱地金襴手・瑠璃地金襴手などと称して珍重する。この技法は江戸以降わが国でも頻用され伊万里や京焼に多くの例を見ることができるが、わが国のものは錦手と呼ぶ事が多く、一般に金襴手というと中国明代のものを指すようである。

慶入(楽慶入)

楽代11代。実は丹波国南桑田軍国分庄の小川直八の三男で幼児より楽家十代旦入に養われていた。1817年生まれ。幼名惣吉、のち吉左衛門、諱は喜貫、剃髪して慶入と号した。38歳のとき養父旦入が死んだので家を継いだ。作風はノンコウを募ったようであり、技巧に優れ表釉にも種種の工夫がある。嘉永年間(1848~54)有栖川宮家に茶器を献上し1865年には孝明天皇のご用命で雲鶴の火鉢数個を納め、翌年にはお茶碗のご用命を拝した。また西本願寺尊上人から「雲亭」の印を受けた。1902年1月3日86歳で没。

使用印は三期に分類される。

第一期…旦入の在籍中すなわち相続以前の期間で、紫野の黄梅院大綱和尚の筆なるいわゆる蜘蛛の巣印というもの。

第二期…厪其昌の法帖から選出したもので、1851年から1870年までのもの。

第三期…1871年6月の剃髪以降で白楽印と呼ばれるもの。

桂石

石英粒が珪酸質成分で膠着されたもので、陶磁器工業では釉薬などの要素となる。主要産地は福島県伊達郡川俣町、大阪府北河内郡四条畷町、愛媛越智郡大三島町、岐阜県多治見市小名田町、同鳥屋根など。京都市東山区山科日ノ岡産の通称日ノ岡という珪石は古くから、目砂・楽焼釉などに用いられてきた。

スリップウェア

イギリスの土焼で、泥漿釉を平行線上に塗りそれに櫛目を入れて羽状斑を現したものなどをいう。

スリップウェアは進んだ陶磁器技法の普及や産業革命による大量生産品の普及とともに廃れた。しかし20世紀になって見直されこの技法を使う陶陶芸家やメーカーも多くある。そのうち、バーナード・リーチ富本憲吉1913年に東京の丸善で購入したチャールズ・ロマックスの『古風な英国陶器』という本の中で、初めてスリップウェアの存在を知った。リーチと濱田庄司1920年にイギリスに渡り、セント・アイブスの彼らの窯の近くでスリップウェアの破片を見つけるとともに現存するスリップウェアを収集し、1924年に濱田が日本に持ち帰った。柳宗悦河井寛次郎もこれを目にし、彼らの作陶や民芸運動に強い影響を与えた。後に船木道忠によってその技法が解明された。

『大正名器鑑』

書名。高橋箒庵編著。9編13冊。名物茶碗・名物茶入並びに著者の選定にかかる茶入・茶碗の図録。器ごとに実物大の写真図版を示し、名称の由来・実見記・伝来を詳記し、その器に関する子文献の諸記載を集め掲げている。1921年12月に初冊を刊行し昭和初年に完成。茶入・茶碗の名物を集大成した大著である。

錦光山

京都粟田の陶家。粟田陶工の旧家のひとつで慶長年間(1596~1615)よりすでに製陶に従ったという。正保年間(1644~8)に初代小林徳右衛門が粟田口に窯を築き鍵屋と号した。二代もまた徳右衛門という。元禄(1688~1704)に三代茂兵衛が粟田青蓮院の宮の御用を仰せ付けられて錦光山の名を賜った。また当時の将軍家日用の茶碗は粟田口焼の蛋白色のものを用い、三文字屋の専業で三文字屋は御茶碗師と称していたが、延享年間(1744~8)に至って資産が窮乏して幕府の用品を製造することができず、幕府もこれを補助したがついに堪えることができなかったので1755年粟田陶工を簡択して錦光山・岩倉山の両人に製造を命じた。錦光山は御用茶碗を焼くほかに天目茶碗・御鷹野茶碗などを作った。四代・五代共に喜兵衛と称し御用陶工であった。オランダ写しあるいは御室仁清風のものをつくり、マル宗ともいった。六代宗兵衛の頃から姓を錦光山と改め青木木米に師事して磁器の製法を伝習し維新の頃製品を改良して貿易を始めた。京都磁器海外輸出の最初であっただろう。七代宗兵衛はますます貿易に励み、欧米を視察して製品の改革を図り斯業に大いに貢献した。緑綬褒章受賞。1928年2月61歳で没。

 

狂言袴

高麗やきものの一手で、その文様から狂言袴と名付けられたが、質は雲鶴手である。狂言袴の名は小堀遠州が命じたもののようで、青磁様の薄鼠の地に白象嵌で花のような雲鶴丸文があるのが当時の狂言師の袴の文様に似ていたので狂言袴といったものである。もちろん時代に新古がある。新時代品は往々朝鮮墓地から発掘され、千篇一律で趣味に乏しい憾があるが、利休時代に渡来したものは作精妙ですこぶる雅致がある。茶碗には筒形が最も多い。茶碗以外にもまた同手の器物があっていずれも茶人の賞翫に値するものである。この手の茶碗に大名物で招鷗所持のものがある。丸文が三ヶ所にあって時代は古く同手中特に秀絶であるとされる。招鷗ののち、稲葉美濃守、上田宗五・松平伊賀守を経て松浦家に伝来。

京薩摩

京都粟田焼で焼造した薩摩焼風のひび釉もの。薩摩焼は白色素地上に淡黄色のひび釉をかけたものであるが、粟田焼は素地が卵白色で無色のひび釉である。維新後薩摩焼の流行に際し、粟田の輸出品もまた京薩摩と呼ばれて外人に賞翫された。

砧青磁

中国浙江省の竜泉窯産の青磁の一種に対するわが国での俗称。語源は、ある鯱耳の花生に割れがありこれを鎹で止めてあるのを利休が見て響きがあるといったためという『槐記』の説が知られているが、一説には東山慈照院にあった花生が絹を打つ砧の形に似ているのでこの名が出たともいう。いずれにしろそれらに類する竜泉窯で南宋時代に作られた粉青色の青磁全般を指す語となった。ちなみに南宋後期から元にかけてのものを天竜寺青磁、明代のものを七官青磁と呼んでそれぞれ区別している。