2010年03月の記事一覧

吉州窯

中国江南省吉安府永和鎮にあった窯で、鎮名をとって永和窯ともいう。文献にはいろいろの記述があるが、近来の知見とはかなり隔たりがあるようだ。この窯の起源は唐あるいはそれ以前ともいわれるが定かではない。1937年イギリスの学者ブランクストンが、この窯跡を調査して大英博物館にある稀代の名品唐白磁画花文鳳首瓶と同好の破片を発掘したことから、この窯が遅くとも唐末頃には活動を始め、優秀な白磁を焼いた事があきらかとなった。もっとも戦後の中国の調査ではこれに類する破片の出土をみず、この説に疑問を持つ向きもあるが、その後大英博物館の鳳首瓶に近似する遺品が東南アジア

などでいくつか発見されており、一応それらを唐末五代の吉州窯産とみるのが通説となっている。吉しかしこの州の窯名を最も高らしめかつ遺品にも富んでいるのは、吉安天目と呼ばれる玳玻盞天目の類で、南宋の頃福建省建窯から移住してきた天目づくりの陶工によって始められたものであろう。濃褐色の釉の一部に鼈甲色の釉斑を配してさまざまの文様を得るもので、わが国では古くから抹茶茶碗として大量に輸入され珍重されている。なおこの時期には玳玻を応用した壷・瓶・鉢などもつくられており、中国の報告ではほかに青磁・白磁・白磁鉄砂・青白磁が、また元以後には青花もつくられているという。

吉向焼

初代吉向治兵衛は通称亀次、伊予国大洲の生まれで、父帯屋武兵衛は砥部焼の陶工であった。明和(1764~72)初年に京都にでて陶法を修め、のち大阪の十三に開窯した。初め亀次の何因んで亀甲焼と称したが、大阪寺奉行水野候から吉向号を拝領して以降吉向焼を名乗った。作品は交趾風を主とするが、染付けもあり、陶技や意匠に優れ、近世屈指の名工である。十三時代には片桐右州にも愛顧を賜り、止々簷の号を拝領している。のちには江戸に移ったが、その名声はいよいよあがり、周防岩国藩主吉川候・美作津山藩主堀候からも招かれて、それぞれ御庭焼を焼いている。号には右のほか十三軒・吉阿などがあり、吉向・十三軒・出藍・連珠・紅翠軒などの印銘を用いた。1861年江戸で没した。初代治兵衛の江戸での養子が、江戸吉向となり、大阪吉向は亀治によって継がれその後五代目となって、松月軒吉向と十三軒吉向の二家に分かれた。現在の東大阪市日下町の十三軒と枚方市の松月軒とがそれである。なお江戸吉向は明治に入って廃窯している。

喜左衛門井戸

国宝。大名物。朝鮮茶碗、名物手井戸。一名本多井戸。慶長年間(1596~1615)大阪の町人竹田喜左衛門が所持していたのでこの名がある。のち本多能登守忠義に伝わったので本多井戸とも呼ぶ。外部は総体に枇杷色で一部青味を帯びたところがあり、轆轤目が荒く巡り胴に一部火間がある。また鯉形の細長い繕いがある。腰以下はかいらぎ釉が水玉のように飛び散り、高台廻りに轆轤がきっかりと立ち、その半分以上が土を見せ、この辺にことに多く荒いかいらぎの付着した景色はいいようもなくおもしろい。高台は竹の節が高く、縁の一部はこすれて厚薄が不規則である。高台内はやや深い方で、荒いかいらぎがぶつぶつと現れ、その中央は尖出している。だいたいの作行は非常に手強く、高台内外の土の見えるところと、かいらぎの付着した所とが相錯綜して茶味比類なき茶碗である。内部は枇杷色に黄味を帯び、目はなく、茶碗の半分にわたって轆轤目が一筋目立った所がある。釉なだれがおもしろく、見込は深く、中央に轆轤目がきりきりと廻っている。内部の景色は割合に少なく、その世に名高いのは高台廻りの作行が非凡であるからであろう。口縁に小さい漆繕いが数ヶ所あり、また短い堅樋が数本あるが大ひびはない。高麗焼成物で最古の作であると思われる。この茶碗は竹田喜左衛門から本多能登守忠義に奉られ、1634年本多氏が大和郡山に封を移されるに際し泉南の好事家中村宗雪に譲られ、1751年には塘氏の所蔵となり、安永(1772~81)の頃松平不昧が金550両で購求し、大名物の部に列し「天下の名物なり・永々に大切にいたすべきものなり」と世嗣命じた。しかし、この茶碗の所持者には腫物のたたりがあると伝えられ、不昧もまた図らずも腫疾を病んだので、夫人はこれを手放すように勧めたが不昧はなお惜しんで承知しなかった。不昧の没後子の月潭もまた腫物を病み夫人の憂慮は一方ならず1822年正月家老柳田四郎兵衛の帰国に托してこの茶碗を京都孤蓬庵に寄付した。この腫物の伝説については古来異説が多い。出雲国の故老の伝えるところでは、元の所有者が零落して京都島原の轡者と成り果てたが、なおこれを袋に入れて首に掛け終生を身から離さなかったという。不昧がこれを求める時も臣下に諫めるものがあったが、懸念することなく購求したという。

貫入

釉面に現れたひびのこと。釉亀裂・釉罅など皆同じ。後述するように種々の字をこれに当てるが、現在は貫入・貫乳の字が最も用いられている。中国では開片と称し昔から鑑賞上重要な位置を占め、その形状・細大・美醜を論じて、魚子文といい、牛毛文といい、また柳葉文・蟹爪文・百圾砕・梅花片文・氷裂文・断線文などとおよそいろいろにいわれる。わが国のひび釉としては、薩摩焼・粟田焼・萩焼などが有名。釉ひびを一種の装飾となし、これをはっきりさせるために黒色、赤褐色などをつけることがある。すなわち窯出し直後これを墨汁・紅殻汁中に浸し、またはこれを塗布するのである。窯出し後長時間を経過すると間隙は閉塞され、これらをその間に入れる事ができない。貫入の原因のすべては極め難いが、要するに焼成と冷却の間、素地と釉薬とが膨張収縮の度を異にするからであろう。もちろんそのほかにも貫入発生の原因があることはいうまでもない。

寒月

名物。楽焼茶碗、黒、空中作。黒筒茶碗で口が一部食い違い、その付近に内外にわたって黄釉で半月の景色が現れているためにこの銘を得たのであろう。半月模様のほかは全部黒釉で光沢が麗しく、高台の脇に黄釉中に光甫の彫名がある。大阪竹田家の蔵であったが、その後奥村家、松永聴雪、戸田露吟を経て1901年佐野家に入来

乾隆窯

中国清朝乾隆帝の60年間(1736~95)における景徳鎮の官窯並びにその窯器を指す。乾隆の初期には雍正年間(1723~35)からこの地に駐在して窯事を監督した有名な唐英が引き続き1749年まで窯務の監督に従事していた。唐英は初め任を受けてこの地に来たとき康熙帝第13子怡賢親王を経て親しく雍正帝の命を受けたこともあってすこぶる熱心に窯事を研究し、ついに自らこれに通暁して種々の窯事に関する発明を行い、その結果また時流にかなったこともあって乾隆年間に空前絶後の盛観を呈するに至った。実に乾隆年間は中国窯業の絶頂期といわれ技術上ほとんど神業に近いものがあった。すなわち人間が想像できるものはすべて磁器でつくられないということなく、銅器・漆器・大理石・豆斑石などに至るまで真を欺く程のものをつくるに至った。美術の方面からこれを見ても繊細巧緻は過ぎたるものがあるが、風趣に関してはかえって索然たるものがあるとの批判もやむを得ないところであろう。乾隆中期以降に至って次第に品質低下をきたし、技巧さえも昔日の観なしといわれている。『陶成示諭稿』および『陶人心語』などの著書を書いた。なお1743年皇帝の命によって提出した『陶治図説』は有名である。また唐英の発明した技術上の新法に、洋紫・法青・抹銀彩・水墨・洋烏金・琺瑯画法・洋彩烏金・黒地白花・黒地描金・天藍・窯変などがあるといわれる。なお唐窯の器皿については「土は則ち白壌にして埴、体則ち厚きも薄きも惟だ膩。廠窯は此に至って集大成せるなり。」と『景徳鎮陶録』に記されている。また唐英の集に臨川の李巨来が序するところによると、従来絶えていた金窯の焼成を復興し、翡翠・玫瑰色を創始したと記している。乾隆窯の種類に至っては千差万別で一々述べがたい。有名な古月軒は主として乾隆の産であるといわれている。乾隆窯の款識は篆書体の六字款が最も多く、また楷書体その他の種類もある。

柿の蔕

朝鮮産茶碗に対するわが国の茶人の一分類。ととやと姉妹品であり、古来しばしば混同する場合が少なくない。『茶器名物図彙』に「此の茶碗凡そ形取鉢の如く柿の蔕をあふのけにしたるやうに見ゆ、因って名とする歟、然れば首より浅き茶碗と見ゆ、今も碗中低きは至って少なし、古き斗々屋を柿の蔕と思ひ誤る人多し、土味大に違へり、斗々屋より細工の上品なる所ありて、此柿の蔕には新古無之と見ゆ」といい『陶犬新書』に「魚屋茶碗の上品を柿蔕といふ、その茶碗を見るに柿のへたとおぼしきところなし(中略)香台脇の薬火の具合にて綾紋めきしを見立てしにや」という。すなわち柿の蔕の名称はその形によるとみられるが、色合いにおいてもこの銘を適当とするものがある。やや品位に乏しい憾みがあるが茶味に富んだ茶碗である。この手の茶碗の有名なものに利休所持・細川候蔵の柿の蔕、および竜田・脊尾・大津・竜川・京極の銘をもつものがある。

絵唐津

唐津焼で鉄絵のあるもの。骨董家が言う唐津名物のうちの瀬戸唐津と称するものに次ぐ時代すなわち慶長年間(1596~1615)以降の製とされている。土は赤土で灰釉が施してあって非常に潤沢があり、絵は草画である。器は茶碗・皿・鉢などいろいろ。絵唐津の名物茶碗に藪内家伝来の菊桐紋の茶碗がある。豊臣秀吉が名護屋に在陣中これを焼かせ、帰洛後藪内家の家祖の家祖剣仲に授けたものである。

絵高麗

やや粗糙の白化粧の陶胎に鉄描の黒画のあるもの。中国の磁州窯をはじめ各地方で出る。絵高麗の名がいつ始まったかまだわからないが、茶人が命名したことは明らかである。文禄・慶長の役(1592~8)以降茶事に朝鮮物が著しく流行し、朝鮮から渡来した黒絵のあるものを高麗と称したらしい。一部は朝鮮産であったらしいが多くは中国北方窯所産の日用雑器であった。茶道で珍重されるものに梅鉢の茶碗・魚の手の茶碗があり、前者は梅鉢の文様があるものをいい、後者は茶碗の内面に魚または笹の略画があるものである。今日呼ばれる絵高麗とは、磁州で焼かれた白化粧の陶胎に黒い絵付をしたものの種類に対して主として名づけられたものと思われる。新古いろいろある。白化粧の陶胎に黒い絵付をすることは現在では磁州だけが有名であるが、磁州のものだけとは限らず、中国の北方窯では古くからこのようなものを作っている。定州の窯、さらに古くは邢州の窯・汝州の窯・鄭州の窯、みなそうである。山東省の博山は近年でも焼き、旧満州本渓湖の窯でも数十年前までは焼いていたと言われ、撫順・煙台などの炭坑のあるところでは以前この種類のものを焼いていたことが窯跡から出た品物によって証明される。北中国では石炭の出るところには必ず陶窯があってこの種のものを焼いている。黒い絵付けには文字・絵・文様があり、それぞれ製作の意匠に従い時代の新旧があるが、時代を確然と分けがたいものがある。品種もまた多く、壷・碗・鉢・皿・徳利・盒・人形・陶沈など種々ある。雅俗入り混じっているが、古代のものは典雅で近代のものは粗俗である。ただ人によって観賞の点が異なる。瓷質堅緻なものもあるが一般的には土質がまさり、焼成後釉のない部分は吸湿性で粗い感じを与える。成形は初めに素焼きをすることなく、白土で化粧掛けを施し、鉄分の多い赤土で文様を描き、釉を掛け、乾かしたのち兜形の丸窯に入れて石炭で焼くが、古くは薪材を用いたらしい。焼成後において、かすかに鉄分を含む釉は酸化焼成のために象牙色を帯びて熔け、赤土で描かれた絵は黒または黒褐色を呈し、熔けた透明の釉は化粧掛け層によって滋潤の感じを出し、瓷質・釉・絵ともにいわゆる絵高麗の愛すべき古雅の趣を出している。釉があまりにもよく熔けすぎたものは光沢が強すぎ、絵の黒色も褐色となってかえっておもしろみの減ることがあり、ものによっては釉が生熔け気味の方が絵が黒く釉が光らないでかえって趣があるようである。人の好みにもよるが焼成の程度は、生で黒絵が枯燥すれば器物の品位を欠き、また焼けすぎて黒絵が朦朧となれば観賞の眼を害する。以上は近年の滋州窯の品を標準として説明したが、いわゆる絵高麗はその他各窯の所産をも含む呼称で、ただ単に中国北方窯だけでなく、朝鮮産三島手風に黒い絵付のあるものもまた絵高麗という。今日茶人が珍重する絵高麗梅鉢の茶碗と同手のものは朝鮮慶尚北道から出土した。要するに絵高麗は茶人が分類したもので、元来は朝鮮から渡来したための呼称で、以後外観が似ていればその産地は問題とせず、質の異同も深く鑑別しないで一般に絵高麗と呼んだのであろう。

河南天目

中国宋代に河南省で焼造されたとみなされている天目の類で、はじめ鉢天目茶碗を・瓶・合子・吐魯瓶に至るまで多くの器形が作られている。深い黒色の釉表に茶色の斑文を浮かばせた鷓鴣斑と称する手が最も多く、さらにこれを進めて茶色の文様を描き出したものもある。この斑文がこまかい兎毫盞とよく似ている。漠然と河南と称しているが、おそらく磁州窯系の窯場で産したものであろう。