岡倉天心
明治美術界の指導者。本名覚三。1862年生まれ、横浜の貿易商で元福井藩士の岡倉勘右衛門の次男。少時から洋漢の学に親しみ、1880年東京大学文科を卒業、文部省に入り東大教師だったアメリカ人フェロノサと協力して日本美術の調査に従事、外遊の後美術雑誌『国華』を創刊した。1890年開校後1年の東京美術学校(現東京芸術大学)校長に就任、1898年退職下野し、橋本雅邦・下村観山・横山大観・菱田春草らと共に日本美術院を創設して画壇の改革に力を尽くした。1901年インド漫遊、1904年からはアメリカのボストン美術院の東洋部長を勤め、その間諸外国にも往復し、また東大で東洋美術史を講じたりもしたが1913年9月2日新潟県赤倉山荘で没した。51歳。天心は高邁卓越の見識をもって当時のわが美術界を指導し、また英文をもって『東洋の理想』『日本の目覚め』『茶の本』の三部作を著わし、日本および東洋精神の理想を鮮明にした。
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遠州高取
小堀遠州の好みによる高取焼の茶器。寛永年間(1624~44)黒田候は高取の工人八蔵とその子八郎右衛門を京都伏見の遠州のもとに遣わし、その指示によって茶入・茶碗・水指などを作らせた。遠州高取の逸品として有名なものに染川・横岳・秋の夜などの茶入がある。
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奥田頴川
京都の陶工。京焼の磁祖といわれる。1753年生まれ。姓は奥田、名は庸徳、通称茂右衛門。本姓頴川に因んで頴川と号し、また陸方山とも号した。下京大国町五条北入るの丸屋という大質商で育ち、趣味から作陶に入ったが磁器の製造に成功し、京焼における磁器の先駆者となった。作品には交趾手・古染付風・呉須赤絵風などがあるが、呉須赤絵の手が特に優れている。種類には茶器・食器・花瓶・香炉などがある。素地も純白ではなく釉調も失透明気味でまだ白磁とは言えないが味わいは深い。赤絵の花鳥は特に筆致が暢達し、細密な人物画にも巧みである。時に赤や染付あるいは彫りで頴川の銘があり、まれに陸方山や庸の銘もある。門下から木米・道八・嘉介・亀祐また瀬戸の頴渓らの名工が出た。
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雲鶴青磁
高麗青磁の後半期に見られる象嵌青磁で、文様は飛雲舞鶴が主であるが、それ以外の同種の製品も含んでいる。年代は高麗の毅宗の朝から忠烈王の朝に至る12世紀の後半から14世紀初期の間で、あとは三島手となり李朝に続く。毅宗の豪奢な好みから青磁の瓦などが所望され、窯元では焼成上の困難を避けるため象嵌本位の細工に傾いて釉色を第二としたため、この期間に雲鶴青磁の全盛時代を画したといわれる。この象嵌青磁は次第に釉色の退歩を招き、ついには青磁釉から普通の灰釉に転化しやがて後代の三島手に続くが、その釉色は鑑賞上からはかえって特色の現れとして一層愛好された風がある。雲鶴青磁の素地は鼠色で象嵌用の彩料は白土・赤土および辰砂の三色があり、赤土は鉄室で黒色を呈し、辰砂は銅質で紅色を呈する。たあし象嵌手には二層あって、白土または黒土で直接文様を現わすのと、素地全体を文様化してその間に黒土や白土を嵌めた逆象嵌のものとがあり、後者はむしろ少ない物に属するようである。もし、この象嵌手の新旧を区別するなら、青磁の質がよく、白土だけで少し象嵌したものが最も古く、次いで黒白二色を用いて文様が明白丁寧なものがこれに続き、磁質が粗悪で素地のがさついたものを最も晩出のものとする。その後出のものは文様の型が崩れ象嵌の線も乱れ、かつ焼き上がりが悪くセメント色になったり珠光手のような褐緑色となり、酸化焔で焼かれたものは自然と三島手の内に加えられる。象嵌の手段には箆彫りと押印とその併用の三種があって、轆轤製あるいは型細工の素地に凹印し白泥・黒泥などを塗り、あとで表面の余泥を拭い去ったものである。文様の主眼である雲と鶴は中国の古代文様からきて高麗化したものと思えるが、その源あるいは西域に求められないだろうか。飛雲舞鶴の組み合わせは千差万別であるが、中でも不規則な配列が最も多い。なお雲鶴以外の文様には唐草に人形、葡萄、蓮唐草、牡丹、菊、忍冬の唐草などがあるが特に、蒲柳水禽は高麗の特色である。また、玉覆輪、七宝、菊小紋、雷紋、柘榴などを見るほかに雲竜もあるが、これは少しあとのものらしい。これらの文様は中国から取り入れたとされるが、高麗ではもっぱらこれを簡易化した。釉色なども高麗青磁の初期は美しい透明釉であったが、そのあとの象嵌時代のものはどんよりして内に沈んでいる奥床しさがあり、その幽玄味は高麗の特徴としてむしろ珍重されている。
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姥ヶ餅
近江国栗田郡草津の陶器。この地の姥ヶ餅茶屋の主人が創始し、その年代は元文年間(1736~41)あるいは宝暦年間(1751~64)の頃とされるが不詳。黒楽と交趾写しの二様があるうち、黒楽は主として楽左入に託して焼いたといわれ、交趾写しはそれより少し時代があとだとみられている。製品は梅林焼に似ているが雅ではない。2,3種の姥ヶ餅印を押した。
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卯花垣
国宝。名物。国焼茶碗、志野。片桐石州の箱書き付で、表に「卯花墻」、裏に「山里の卯花墻の中の路雪踏みわけし心地こそすれ」とある。雪のような白釉の中に籬のような黒筋があるのでこの歌銘を選んだものらしい。もと江戸冬木家の蔵、明治初年山田某が所有した。関西では羽衣および山里とこと茶碗を志野茶碗中の名物といいはやし、1890年頃に千円で売買だれた茶器は卯花墻が最初だとされている。
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宇野仁松
1846年10月京都に生まれた。父祖より陶業を受け五条坂に住み、初代清風与平に師事した。もっぱら美術品の製作に従事し、1885年頃から輸出貿易に着眼、欧米各国に販路を広めた。辰砂釉とマット釉に定評があり、また陶器に竹巻と応用することを案出した。
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因久山焼
鳥取県八頭郡郡家長久能寺の陶器。その窯名は因幡久能寺の冠字によるもので別に久能寺焼の称もある。寛政年間(1789~1801)に京都の陶工六兵衛に御室焼の陶法を授けたのに始まり、その後享和・文化(1801~18)の頃、近江信楽の陶工勘蔵が来て陶業を始め、その子勘助もこの業を継いで文政(1818~30)の初めには陶家四戸を見るに至った。幕末・明治の変革に際して一時衰退をきたし、1885年の頃には尾崎・芦沢の両家だけとなった。なおモースは「因久山勘」の銘のあるものは特に高価だとしている。製品には茶の湯用の器が多く京都製に近い。
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くらわんか茶碗
江戸時代摂津国枚方付近で、淀川通いの船に酒食を売る船で用いた粗磁の茶碗。徳川家康から許しを受けたといって言葉も乱暴に「餅くらわんか酒くらわんか」と叫んで売った。もとは肥前地方の染付の粗物または伊予国の砥部焼であったが、のちには摂津の古曾部焼用いられた。粗野の中にもたくまざる雅味があるといって一部で珍愛され、のちには京都の名工もこれを模造した。
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梅華皮(かいらぎ)
かえらぎ、かいらげともいう。釉のちぢれである。朝鮮系の井戸茶碗などで、腰部や高台付の取巻きのあたりに釉が鮫肌のように荒れてぼろぼろにみえているのは、一つの景色として賞美されている。かいらぎはもと刀剣に装用した蝶鮫の皮のことで、釉がちぢれて荒れた様子が鮫皮によく似ているのでかいらぎという。粗陶器は下部が焼け不足なので釉薬が十分に熔着しないためかいらぎとなるのであり、技術的には一欠陥とみなすことができる。
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