喜左衛門井戸
国宝。大名物。朝鮮茶碗、名物手井戸。一名本多井戸。慶長年間(1596~1615)大阪の町人竹田喜左衛門が所持していたのでこの名がある。のち本多能登守忠義に伝わったので本多井戸とも呼ぶ。外部は総体に枇杷色で一部青味を帯びたところがあり、轆轤目が荒く巡り胴に一部火間がある。また鯉形の細長い繕いがある。腰以下はかいらぎ釉が水玉のように飛び散り、高台廻りに轆轤がきっかりと立ち、その半分以上が土を見せ、この辺にことに多く荒いかいらぎの付着した景色はいいようもなくおもしろい。高台は竹の節が高く、縁の一部はこすれて厚薄が不規則である。高台内はやや深い方で、荒いかいらぎがぶつぶつと現れ、その中央は尖出している。だいたいの作行は非常に手強く、高台内外の土の見えるところと、かいらぎの付着した所とが相錯綜して茶味比類なき茶碗である。内部は枇杷色に黄味を帯び、目はなく、茶碗の半分にわたって轆轤目が一筋目立った所がある。釉なだれがおもしろく、見込は深く、中央に轆轤目がきりきりと廻っている。内部の景色は割合に少なく、その世に名高いのは高台廻りの作行が非凡であるからであろう。口縁に小さい漆繕いが数ヶ所あり、また短い堅樋が数本あるが大ひびはない。高麗焼成物で最古の作であると思われる。この茶碗は竹田喜左衛門から本多能登守忠義に奉られ、1634年本多氏が大和郡山に封を移されるに際し泉南の好事家中村宗雪に譲られ、1751年には塘氏の所蔵となり、安永(1772~81)の頃松平不昧が金550両で購求し、大名物の部に列し「天下の名物なり・永々に大切にいたすべきものなり」と世嗣命じた。しかし、この茶碗の所持者には腫物のたたりがあると伝えられ、不昧もまた図らずも腫疾を病んだので、夫人はこれを手放すように勧めたが不昧はなお惜しんで承知しなかった。不昧の没後子の月潭もまた腫物を病み夫人の憂慮は一方ならず1822年正月家老柳田四郎兵衛の帰国に托してこの茶碗を京都孤蓬庵に寄付した。この腫物の伝説については古来異説が多い。出雲国の故老の伝えるところでは、元の所有者が零落して京都島原の轡者と成り果てたが、なおこれを袋に入れて首に掛け終生を身から離さなかったという。不昧がこれを求める時も臣下に諫めるものがあったが、懸念することなく購求したという。
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2010年03月08日 コメント&トラックバック(0) | トラックバックURL |
カテゴリ: 茶道用語
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