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慶入(楽慶入)

楽代11代。実は丹波国南桑田軍国分庄の小川直八の三男で幼児より楽家十代旦入に養われていた。1817年生まれ。幼名惣吉、のち吉左衛門、諱は喜貫、剃髪して慶入と号した。38歳のとき養父旦入が死んだので家を継いだ。作風はノンコウを募ったようであり、技巧に優れ表釉にも種種の工夫がある。嘉永年間(1848~54)有栖川宮家に茶器を献上し1865年には孝明天皇のご用命で雲鶴の火鉢数個を納め、翌年にはお茶碗のご用命を拝した。また西本願寺尊上人から「雲亭」の印を受けた。1902年1月3日86歳で没。

使用印は三期に分類される。

第一期…旦入の在籍中すなわち相続以前の期間で、紫野の黄梅院大綱和尚の筆なるいわゆる蜘蛛の巣印というもの。

第二期…厪其昌の法帖から選出したもので、1851年から1870年までのもの。

第三期…1871年6月の剃髪以降で白楽印と呼ばれるもの。

桂石

石英粒が珪酸質成分で膠着されたもので、陶磁器工業では釉薬などの要素となる。主要産地は福島県伊達郡川俣町、大阪府北河内郡四条畷町、愛媛越智郡大三島町、岐阜県多治見市小名田町、同鳥屋根など。京都市東山区山科日ノ岡産の通称日ノ岡という珪石は古くから、目砂・楽焼釉などに用いられてきた。

『大正名器鑑』

書名。高橋箒庵編著。9編13冊。名物茶碗・名物茶入並びに著者の選定にかかる茶入・茶碗の図録。器ごとに実物大の写真図版を示し、名称の由来・実見記・伝来を詳記し、その器に関する子文献の諸記載を集め掲げている。1921年12月に初冊を刊行し昭和初年に完成。茶入・茶碗の名物を集大成した大著である。

吉州窯

中国江南省吉安府永和鎮にあった窯で、鎮名をとって永和窯ともいう。文献にはいろいろの記述があるが、近来の知見とはかなり隔たりがあるようだ。この窯の起源は唐あるいはそれ以前ともいわれるが定かではない。1937年イギリスの学者ブランクストンが、この窯跡を調査して大英博物館にある稀代の名品唐白磁画花文鳳首瓶と同好の破片を発掘したことから、この窯が遅くとも唐末頃には活動を始め、優秀な白磁を焼いた事があきらかとなった。もっとも戦後の中国の調査ではこれに類する破片の出土をみず、この説に疑問を持つ向きもあるが、その後大英博物館の鳳首瓶に近似する遺品が東南アジア

などでいくつか発見されており、一応それらを唐末五代の吉州窯産とみるのが通説となっている。吉しかしこの州の窯名を最も高らしめかつ遺品にも富んでいるのは、吉安天目と呼ばれる玳玻盞天目の類で、南宋の頃福建省建窯から移住してきた天目づくりの陶工によって始められたものであろう。濃褐色の釉の一部に鼈甲色の釉斑を配してさまざまの文様を得るもので、わが国では古くから抹茶茶碗として大量に輸入され珍重されている。なおこの時期には玳玻を応用した壷・瓶・鉢などもつくられており、中国の報告ではほかに青磁・白磁・白磁鉄砂・青白磁が、また元以後には青花もつくられているという。

柿の蔕

朝鮮産茶碗に対するわが国の茶人の一分類。ととやと姉妹品であり、古来しばしば混同する場合が少なくない。『茶器名物図彙』に「此の茶碗凡そ形取鉢の如く柿の蔕をあふのけにしたるやうに見ゆ、因って名とする歟、然れば首より浅き茶碗と見ゆ、今も碗中低きは至って少なし、古き斗々屋を柿の蔕と思ひ誤る人多し、土味大に違へり、斗々屋より細工の上品なる所ありて、此柿の蔕には新古無之と見ゆ」といい『陶犬新書』に「魚屋茶碗の上品を柿蔕といふ、その茶碗を見るに柿のへたとおぼしきところなし(中略)香台脇の薬火の具合にて綾紋めきしを見立てしにや」という。すなわち柿の蔕の名称はその形によるとみられるが、色合いにおいてもこの銘を適当とするものがある。やや品位に乏しい憾みがあるが茶味に富んだ茶碗である。この手の茶碗の有名なものに利休所持・細川候蔵の柿の蔕、および竜田・脊尾・大津・竜川・京極の銘をもつものがある。

絵唐津

唐津焼で鉄絵のあるもの。骨董家が言う唐津名物のうちの瀬戸唐津と称するものに次ぐ時代すなわち慶長年間(1596~1615)以降の製とされている。土は赤土で灰釉が施してあって非常に潤沢があり、絵は草画である。器は茶碗・皿・鉢などいろいろ。絵唐津の名物茶碗に藪内家伝来の菊桐紋の茶碗がある。豊臣秀吉が名護屋に在陣中これを焼かせ、帰洛後藪内家の家祖の家祖剣仲に授けたものである。

遠州高取

小堀遠州の好みによる高取焼の茶器。寛永年間(1624~44)黒田候は高取の工人八蔵とその子八郎右衛門を京都伏見の遠州のもとに遣わし、その指示によって茶入・茶碗・水指などを作らせた。遠州高取の逸品として有名なものに染川・横岳・秋の夜などの茶入がある。

奥田頴川

京都の陶工。京焼の磁祖といわれる。1753年生まれ。姓は奥田、名は庸徳、通称茂右衛門。本姓頴川に因んで頴川と号し、また陸方山とも号した。下京大国町五条北入るの丸屋という大質商で育ち、趣味から作陶に入ったが磁器の製造に成功し、京焼における磁器の先駆者となった。作品には交趾手・古染付風・呉須赤絵風などがあるが、呉須赤絵の手が特に優れている。種類には茶器・食器・花瓶・香炉などがある。素地も純白ではなく釉調も失透明気味でまだ白磁とは言えないが味わいは深い。赤絵の花鳥は特に筆致が暢達し、細密な人物画にも巧みである。時に赤や染付あるいは彫りで頴川の銘があり、まれに陸方山や庸の銘もある。門下から木米・道八・嘉介・亀祐また瀬戸の頴渓らの名工が出た。

雲鶴青磁

高麗青磁の後半期に見られる象嵌青磁で、文様は飛雲舞鶴が主であるが、それ以外の同種の製品も含んでいる。年代は高麗の毅宗の朝から忠烈王の朝に至る12世紀の後半から14世紀初期の間で、あとは三島手となり李朝に続く。毅宗の豪奢な好みから青磁の瓦などが所望され、窯元では焼成上の困難を避けるため象嵌本位の細工に傾いて釉色を第二としたため、この期間に雲鶴青磁の全盛時代を画したといわれる。この象嵌青磁は次第に釉色の退歩を招き、ついには青磁釉から普通の灰釉に転化しやがて後代の三島手に続くが、その釉色は鑑賞上からはかえって特色の現れとして一層愛好された風がある。雲鶴青磁の素地は鼠色で象嵌用の彩料は白土・赤土および辰砂の三色があり、赤土は鉄室で黒色を呈し、辰砂は銅質で紅色を呈する。たあし象嵌手には二層あって、白土または黒土で直接文様を現わすのと、素地全体を文様化してその間に黒土や白土を嵌めた逆象嵌のものとがあり、後者はむしろ少ない物に属するようである。もし、この象嵌手の新旧を区別するなら、青磁の質がよく、白土だけで少し象嵌したものが最も古く、次いで黒白二色を用いて文様が明白丁寧なものがこれに続き、磁質が粗悪で素地のがさついたものを最も晩出のものとする。その後出のものは文様の型が崩れ象嵌の線も乱れ、かつ焼き上がりが悪くセメント色になったり珠光手のような褐緑色となり、酸化焔で焼かれたものは自然と三島手の内に加えられる。象嵌の手段には箆彫りと押印とその併用の三種があって、轆轤製あるいは型細工の素地に凹印し白泥・黒泥などを塗り、あとで表面の余泥を拭い去ったものである。文様の主眼である雲と鶴は中国の古代文様からきて高麗化したものと思えるが、その源あるいは西域に求められないだろうか。飛雲舞鶴の組み合わせは千差万別であるが、中でも不規則な配列が最も多い。なお雲鶴以外の文様には唐草に人形、葡萄、蓮唐草、牡丹、菊、忍冬の唐草などがあるが特に、蒲柳水禽は高麗の特色である。また、玉覆輪、七宝、菊小紋、雷紋、柘榴などを見るほかに雲竜もあるが、これは少しあとのものらしい。これらの文様は中国から取り入れたとされるが、高麗ではもっぱらこれを簡易化した。釉色なども高麗青磁の初期は美しい透明釉であったが、そのあとの象嵌時代のものはどんよりして内に沈んでいる奥床しさがあり、その幽玄味は高麗の特徴としてむしろ珍重されている。

卯花垣

国宝。名物。国焼茶碗、志野。片桐石州の箱書き付で、表に「卯花墻」、裏に「山里の卯花墻の中の路雪踏みわけし心地こそすれ」とある。雪のような白釉の中に籬のような黒筋があるのでこの歌銘を選んだものらしい。もと江戸冬木家の蔵、明治初年山田某が所有した。関西では羽衣および山里とこと茶碗を志野茶碗中の名物といいはやし、1890年頃に千円で売買だれた茶器は卯花墻が最初だとされている。