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因久山焼

鳥取県八頭郡郡家長久能寺の陶器。その窯名は因幡久能寺の冠字によるもので別に久能寺焼の称もある。寛政年間(1789~1801)に京都の陶工六兵衛に御室焼の陶法を授けたのに始まり、その後享和・文化(1801~18)の頃、近江信楽の陶工勘蔵が来て陶業を始め、その子勘助もこの業を継いで文政(1818~30)の初めには陶家四戸を見るに至った。幕末・明治の変革に際して一時衰退をきたし、1885年の頃には尾崎・芦沢の両家だけとなった。なおモースは「因久山勘」の銘のあるものは特に高価だとしている。製品には茶の湯用の器が多く京都製に近い。

青備前

備前焼の一種で上品な青灰色をしたもの。青焼または青伊部ともいう。

明和(1764~72)から寛政(1789~1801)までにかけて最も名品を産出し、風流な趣あるものが多い。伊部窯の旧式大窖窯時代に作り出されたもので原料は普通の伊部焼と変わらないが、その含有鉄分が窯の中で適度に局部的な還元作用を受けたために出る色である。近代になってその大窯が廃止され普通の登窯式になってからは、青備前の珍種もできにくくなった。

青木木米

京都の陶工。仁清・乾山と並んでわが国三大名工のひとり。

姓は青木、幼名八十八、のちに父の名を襲って、佐兵衛と改名。通称木屋佐兵衛、一説に木舎佐平、または佐兵衛・佐平。字は青来。木米・聾米・九々麟・百六散人・古器観・停雲楼などの号がある。

上野焼(あがのやき)

福岡県田川郡赤池町上野の陶器。遠州七窯のひとつである。

陶祖尊楷(上野喜蔵)は文禄・慶長の役(1592~8)に帰化した朝鮮陶工で、1602年に細川忠興が丹後国田辺(京都府舞鶴市)から豊前国小倉(福岡県北九州市小倉区)に転封された時、招かれて小倉に移り最初は城下の菜園場村に築窯した。1605年頃尊楷は上野に移り開窯したが釜ノ口・皿山本窯・岩谷などの窯跡があり、皿山本窯は明治年間まで続いた。

尊楷は1632年に細川家の肥後熊本城転封と共に長男・次男を連れて八代に移ったが、三男孫左衛門と娘婿久佐衛門と共に残り次の藩主小笠原家に仕えた。初期の作品には土灰釉・藁灰釉・鉄釉を使っており唐津や古高取によく似ている。後代には白釉地に上の青釉(銅緑釉)や三彩を掛けた作風を特色とし、この伝統が現在の窯でも行われている。古作は無印で、巴印は幕末頃から使われた。紫蘇手・玉子手・柚肌手なども後代のものだが、趣味家には喜ばれている。

安南焼

安南(ベトナム)かた渡来したやきものの称。わが国と安南は室町時代の後期から江戸時代の初期にかけて相当の交通があり、この船で運ばれたやきものも東京・安南・占城地方で産出されたものであろう。『万宝全書』には「安南は染付の色あしくから物の下品なり云々、今渡りの類は沢山にして珍とせず、古きは重宝とす、道具模様いろいろなれども元来下手ものなり、水指、ふか鉢等多くは絵あり云々」とある。昔から安南ものとして茶人の間で愛玩されているものに無地安南と呉須安南の二種がありどちらも侘びた趣に富んだものである。安南焼はすべて輪焼きで、土は白色、地釉は青みがかった中にやや黄色がかった色合いである。模様のないものは無地安南と呼ばれ伝世品はまれである。普通の製品には文字とも模様ともわからないものを呉須で描くため呉須安南と呼ばれ上製のものには釉ひびはない。安南焼として伝えられるものには染付けのほかに青磁、赤絵安南もみられ器物としては安南呉器、安南啜香などがあり、さらに安南織部、安南絵高麗、安南絵堅手などに小分けする。わが国の安南写しとしては陳元贇の御深井焼が有名であり、ぼやけた染付けではあるが近代陶業者の安南焼は交趾焼が硬化したようなもので、伊賀、信楽、播磨国、明石などから製出された。これらは粗陶器の上に不透明な青または緑の地釉を掛け、その上に白泥で暦手様の盛上げ文を描いている。たぶん交趾焼の装飾手法から転化したものとみられる。

粟田口焼

京都粟田口の陶器。元和(1615~24)あるいわ寛永(1624~44)初年に瀬戸の陶工三文字屋九右衛門が京都に来て粟田口三条通り蹴上(東山区)に築窯し、その子庄右衛門が、助右衛門および弟子、徳右衛門らと共に製陶したのが粟田焼の起こりとされ、京焼では最古の窯とされている。しかし、記録から見ると、その開窯はおそらく慶長年間(1596~1615)を降らぬものとみてよい。主に茶入、茶碗などの茶器を焼き、特に唐物茶入や呉器手、伊羅保手などの写しに特色をだしたようである。また向付の類には錆絵や錆絵、染付併用の淡雅なものが多い。一見仁清風の信楽手もあり、俗に粟田口仁清といわれている。狭義の粟田口焼きは元禄(1688~1704)頃まで続いたようである。「粟田口」印があるがこれには二種ある。