陶器用語の記事一覧

呉州(呉須)

コバルト化合物を含む鉱物の名。沙のように黒くて青緑を帯びている。これを極細末にして水に溶かし、文様を磁器に描き、上に釉を掛けて焼けば藍色になる。それゆえ青絵釉ともいう。器上に藍文を付したものを青絵・染付・青花・呉須手などという。ただし、呉須は彩料の名であると同時に一種の磁器をも指し、また装飾様式をも指す。呉須の語はおそらくわが国固有のものではなく、中国南方または朝鮮の土俗語を音訳したものであろう。染付青色を呉須と称し、また赤緑上絵装飾の磁器を呉須赤絵と称することから、陶磁器彩料を一般に呉須と呼ぶと解せるのではなかろうか。また青花の発色が鮮麗でなくやや黒味を帯び、文様もまた簡素で製作技巧も粗雑なものを呉須手と称している。青花磁の精美でないもの、または粗雑な白磁に簡素な上絵付文様のある一種に赤呉須・赤絵呉須・青呉須の称がある。また白呉須と称するものは、厚いぼてぼてした感じのする粗雑な磁器で、文様のないもののことである。彩料としても呉須は陶磁器彩料中最も重要なもので、他のあらゆる色彩の総和よりもなお多く用いられている、中国の椀花・石花・蘇泥渤青・回青・韭細辺・・頂円子老円子・画焼青・無名子・黒赭石・石子青・石青などみな呉須である。呉須は酸化焰焼成の際は暗色調を呈し、黒味がちの不快な色調となり、還元焰の場合は発色が鮮やかである。またその青色調は素地・釉薬の組成分とも大いに関係がある。胎質に珪酸分が多いと呉須は乱れやすく、色は黒味を帯びる。釉薬に礬土が多いと紫青色が鮮やかとなり、亜鉛が混入すると藍青色が鮮やかである。珪酸過多または石灰過多、あるいは苦土分を含有する釉薬は呉須を暗色にすることがある。胎および釉薬の融化の程度もまた色調に大なる影響を及ぼす。

古丹波

桃山時代以前の丹波焼の古陶。立杭付近の三本峠・太郎三郎・源兵衛山・稲荷山などの山間の窖窯で焼かれた。重に無釉で大甕・壷・摺鉢などがある。名工吉蔵の名が伝わっている。茶器は江戸時代になってからである。

古曾部焼(こそべやき)

摂津国島上郡古曾部村の陶器。

1790年頃五十嵐新平が京風の窯を築いたのが起こりで「古曾部」の印を用いた。文政(1818~30)年中に80歳で没。 

二代新平は高取・唐津・高麗・南蛮などを写した。別名を一単斎信楽と称し、61歳で没した。

三代新平は嘉永年間(1848~54)に京工を招き清水六兵衛の風を倣った。行平・急須・盃・菓子皿・茶碗・火入・水注・花入・酒縹・土瓶などを製した。

四代信平・五代信平と続いたが、明治末年に廃窯した。

古曾部の特色になっている三島写し・絵高麗写しなどは、三代頃から盛んに焼かれたもので、そのほかくらわんか茶碗や海老絵小皿も知られている。代々いずれも「古曾部」印を用いた。

古染付

古染または古染付と称されるものについては、従来ほぼ二説あると考えてよい。

1つは、古染は古渡りの染付を指称するもので、中渡り・新渡などと対称すべき名称であるから必然的に古い染付であるとする説。

もう一つは古染といっても必ずしも古渡りであることを要せず、ただ虫食があるなどその外観が古拙で、一見いかにも古い感じがあればこれを古染と称する説。

いずれにしても古染はわが国のやきものではなく、中国の焼き物であってわが国に渡来したものをいう。従来茶人・骨董商らが古染と称する実物はおおむね明朝末期の染付と認められるもので、清朝と思われるものは古染とはいわないようである。いわゆる古染めというものをみると、明朝天啓(1621~7)頃の民窯の所産特に下手物と認められるもので、あるいはさらに時代の古いものがあるかもしれないが、その数は稀少であろう。古染の品種は高砂手の花生、鶴の模様の手桶形水指、富士形・銀杏・紅葉の鉢、馬の絵の手鉢、羅漢手の反鉢、脚付の魚形あるいは半扇・結文・洲浜・木瓜など種種のものがあるが、これらの品物は中国においてはほとんど現存するものがなく、しかもわが国においては今日かなり遺存している。またこれらの古染の形および図案の中には、明白にわが国よりの注文品であるか、または日本向け輸出品としてつくられた証拠を認められるものがある。例えば富士山形の鉢、御所車の手鉢などはその著しいものである。このことから推測して、古染というものはあるいは全部が日本向けのために中国においてつくられたもので、中国人は知らないやきものであるとする説があるが、この種の下手物は中国においては民間一般の雑用品であったかた当時これを珍重するものがなく、ことごとく破砕し去って今日ほとんど一品をもみられなくなるに至ったのであろう。これに反してわが国に渡来したものは、唐物・舶来などと称して珍賞されたのはもちろんのこと、一度茶人の手に渡り種種の箱書・伝来などを付せられると、大金をもって取引されるようになり、したがってこれを珍重すること金銀珠玉にまさる風であったから、わが国には多数残存したのであろう。これと同例は茶人の珍重する朝鮮製の古い茶碗においても認められる。これらは、おおむねかつての朝鮮の農夫・労働者らの飯茶碗であったもので、朝鮮においては廉価の日用品であったので重視せず、製品もすぐに破砕し尽くし、今日残存するものはわずかにわが国の茶人の間に珍重される限られた数のみとなり、法外の市価を有するのである。なお古染の産地は景徳鎮である。

現川焼(うつつがわやき)

肥前国彼杵郡矢上村字現川野の陶器。矢上焼ともいう。田中五衛門がその子甚内と1692年に開窯、しばらく続いたが寛保年間(1741~4)頃に廃窯。作は薄手で一見京焼風であるが、これに肥前特有の刷毛目が一層洗練されて瀟洒に施され、大きな特色となっている。その意匠によって蓮華刷毛・牡丹刷毛・小波刷毛・縮緬刷毛・螢手・流描き・地図描きなどと呼んでいる。絵付けには白土のほかに鉄・胆礬・呉須もつかわれている。古作には印銘はないが、1895年頃から1903年頃まで馬場藤太夫とその子、弥四郎が同地字比羅に築窯して古現川焼を再興し、現川の窯印を用いた。また1897年頃檀野勝次が字山川に築窯したが間もなく廃窯した。

肩衝(肩衝茶入)

肩つくりの高い茶入。『弁玉集』に「肩衝ト云事ハ肩ヲツキタル故也相ハ色々様々ノ姿有之也」とある。その張り方に撫形・一文字・怒形などの種類がある。『君台観左右帳記』抹茶壷之事の条に大肩衝・小肩衝の名称と図がある。一般に八、九cm以上のものを大肩衝と称し、これ以下のものを小肩衝と称するようである。昔は真の盆点の時は茄子のほかは用いなかったが、利休以来略して肩衝をも用いる。肩衝は茶入中威儀厳然たるものなので名物もまた多く、松屋肩衝・初花肩衝・遅桜肩衝・油屋肩衝・宗半肩衝などが有名。林羅山を嘆かせたような数百金・数千金のものはいうまでもなく、一国一城と取り替えた執着と尊重の物語が多く残っている。

建盞(けんさん)

中国建窯の盞。わが国ではいわゆる天目茶碗の総称で一に建山にもつくる。またある種の天目茶碗の特称でもある。例えば『君台観左右帳記』『茶湯正伝集』に油滴第一曜変、第二・第三建盞とある。建盞は中国北宋中期以前から闘茶家の間に流行し、兎毫盞が賞用されたことが『茶録』などに見える。わが国の茶人は建盞の色および文様の種類に従ってこれに曜変・灰被・黄盞・油滴・玳皮盞・鳥盞などの名を付けてこれを珍重した。このうち玳皮盞というのは、その釉色、特にその外側の色が玳瑁のように黄褐色に黒い斑があるので名付けられたもので、内側すなわち見込みに梅花・鳳凰などの文様がある。この種のものは江西省吉安府の所産であるといわれ、あるいは吉安天目とも呼ばれる。その他河南省でつくられたといわれるものを河南天目という。このほか建盞類似の窯器は中国の所々において焼造されたようで、ことに明治以来この種のものの渡来することは少なくなかった。なかには油滴が鮮明に出ているものも少なくない。

建窯

建盞と呼ばれる天目茶碗の主産地として昔から有名な中国の窯。福建省建陽県にあるので、建窯と称しているが、窯場はここ一ヶ所に限らず、建甌県・泰寧県・松渓県・崇安県・寧徳県・光沢県・建寧県・福清県・泉州市など福建省一帯から広東省にかけて広がっており、ほぼ同じような天目茶碗をつくっているようだから、そのこまかな戸籍を決めるのは困難であろう。したがってこれらの地域では北宋から元にかけて一般に黒い釉の掛かった天目茶碗を生産したもので、中でも大きな窯場であった建陽県の窯の名をとって建窯と総称すると考えるのが妥当であろう。建窯で産した主たるものは、鉄分の多い黒釉を掛けたいわゆる天目茶碗で、その焼成の状況によって釉中の第二酸化鉄が結粒あるいは流下して、兎毫盞・油滴天目・曜変天目などの別ができたのである。なおこの地域では明代以降、牙白釉の掛かった白磁いわゆる白建とか白高麗と称するものを産したことでも有名。

金襴手

陶磁器の肌にあたかも金襴のように金色で描かれた文様のあるものを金襴手と称する。この金彩模様は中国では古く宋代から用いられはじめたらしく、黒定や柿定・白定・天目などの茶碗の内面に金箔を切って文様としたものを焼き付けた例が見られる。朝鮮の高麗青磁にまれに金彩のものがあるのは宋の影響であろう。この金彩は元末から明にかけて景徳鎮の磁器が栄えるにつれてしばしばその肌を飾るようになり、嘉靖(1522~66)前後の輸出用磁器において空前の盛況を呈した。それらの主流を占めるのは色絵磁器で、色絵の碗や仙盞瓶の要所に金彩を配して豪華絢爛の趣を発揮させている。この手のものを普通赤絵金襴手と称するが、色無地の上絵の肌にこれのあるものを下地の色に従って萌葱地金襴手・瑠璃地金襴手などと称して珍重する。この技法は江戸以降わが国でも頻用され伊万里や京焼に多くの例を見ることができるが、わが国のものは錦手と呼ぶ事が多く、一般に金襴手というと中国明代のものを指すようである。

スリップウェア

イギリスの土焼で、泥漿釉を平行線上に塗りそれに櫛目を入れて羽状斑を現したものなどをいう。

スリップウェアは進んだ陶磁器技法の普及や産業革命による大量生産品の普及とともに廃れた。しかし20世紀になって見直されこの技法を使う陶陶芸家やメーカーも多くある。そのうち、バーナード・リーチ富本憲吉1913年に東京の丸善で購入したチャールズ・ロマックスの『古風な英国陶器』という本の中で、初めてスリップウェアの存在を知った。リーチと濱田庄司1920年にイギリスに渡り、セント・アイブスの彼らの窯の近くでスリップウェアの破片を見つけるとともに現存するスリップウェアを収集し、1924年に濱田が日本に持ち帰った。柳宗悦河井寛次郎もこれを目にし、彼らの作陶や民芸運動に強い影響を与えた。後に船木道忠によってその技法が解明された。