陶器用語の記事一覧

姥ヶ餅

近江国栗田郡草津の陶器。この地の姥ヶ餅茶屋の主人が創始し、その年代は元文年間(1736~41)あるいは宝暦年間(1751~64)の頃とされるが不詳。黒楽と交趾写しの二様があるうち、黒楽は主として楽左入に託して焼いたといわれ、交趾写しはそれより少し時代があとだとみられている。製品は梅林焼に似ているが雅ではない。2,3種の姥ヶ餅印を押した。

くらわんか茶碗

江戸時代摂津国枚方付近で、淀川通いの船に酒食を売る船で用いた粗磁の茶碗。徳川家康から許しを受けたといって言葉も乱暴に「餅くらわんか酒くらわんか」と叫んで売った。もとは肥前地方の染付の粗物または伊予国の砥部焼であったが、のちには摂津の古曾部焼用いられた。粗野の中にもたくまざる雅味があるといって一部で珍愛され、のちには京都の名工もこれを模造した。

梅華皮(かいらぎ)

かえらぎ、かいらげともいう。釉のちぢれである。朝鮮系の井戸茶碗などで、腰部や高台付の取巻きのあたりに釉が鮫肌のように荒れてぼろぼろにみえているのは、一つの景色として賞美されている。かいらぎはもと刀剣に装用した蝶鮫の皮のことで、釉がちぢれて荒れた様子が鮫皮によく似ているのでかいらぎという。粗陶器は下部が焼け不足なので釉薬が十分に熔着しないためかいらぎとなるのであり、技術的には一欠陥とみなすことができる。

ウェッジウッド

イギリスの陶磁製造業者。1730年7月生まれ。家はスタッフフォードシャーの中産階級で製陶業を営んでいた。10歳のとき天然痘にかかり右ひざを痛めて以後自分で製陶することをあきらめ、兄トーマスの経営する製陶工場で製陶工業全般を観察しその改善に努めるようになった。当時イギリスは産業革命の影響を受けて人口が増加し、生活用品の需要は急速に拡大していた。そのため製陶もこの需要に対応して、個人的工房生産から工業生産に改変されることが要求されるようになった。ウェッジウッドは率先して攻防から工場への転換を試みようとしたが兄に同調されず、1758年独立して製陶業を経営し始めた。彼はまず、従来の個人の一貫作業に代えて分業を取り入れ、原料成分や轆轤を改良して量産が可能なようにした。また輸送面での損失を減らすために、新しい運河の開通にも努力した。次いで彼は数人の化学者たちとも接触をもつようになった。その中には酸素の発見者として有名な化学者プリーストリーもいた。彼はこれらの科学者たちから新しい発見やデータを得て、それを彼の製陶業に取り入れると共に、リバプールの指導的企業家ベントリの知遇も得るようになった。こうして彼は絶えず素材と工程の改善に力を尽くし、その中へ当時の新しい科学の成果を十分に取り入れていった。分業・工場の合理的レイアウト、労働条件の改善がすすめられた。かくして有名なエトルリア工場が建設された。やがてベントリも経営に参加した。1768年彼はロシア帝国派遣のイギリス大使用のセットを受注し、これによってロシア宮廷から大量の注文を受けるようになった。中には952個の陶器全部に違った風景デザインを要求するものもあったが、この問題は暗箱を利用して風景を写すことで解決した。彼はエトルリアの実験室で絶えず実験を進め、窯業技術を科学的に解決しようとした。その実験からのちにジャスパーと名付けられた素材がつくりだされた。硫酸バリウムを主成分とするものである。プリーストリーは絶えずウェッジウッドと連絡をとり、その研究成果を彼に伝えた。1660年に創立された王立学会はイギリスの科学研究の中心的リーダーであり、近代科学の発展に大きな役割を果たしたものであったが、その機関誌である『理学通報』にもウェッジウッドは論文を発表するようになり、粘土が温度の上昇につれて収縮する現象を利用した高温計は注目を集めた。1783年には彼も会員に選ばれた。この前年にはワットの蒸気機関が導入されており、珪石の粉砕や絵具・原料土の調整に利用されるようになった。エトルリア工場は実用品・装飾品・人造宝石(ジャスパー)などの部門に分けられ、1790年には約160人の職工がいて分業組織で生産に従事した。これより先1772年には耐熱性の高い陶器で作った多くの化学実験用の器具を載せたカタログが発行された。世界最初のものである。彼の元には化学者たちから多様な実験器具の注文が集まり、それは同時にイギリスの科学を進歩させる役割をもっていた。製陶業は純然たる化学工業まで成長したのである。

 ギリシア・ローマに取材した複製的デザインが多いことが特徴であり、この点をグラッドストーンは「ウェッジウッドは芸術と産業を結合するという重要な仕事に一生を捧げた。彼はイギリスの工業の性格を変えた。彼はギリシア芸術の美の精神を復興した。」と評価した。ウェッジウッドは優れた化学者・物理学者を招いて1763年に陶磁研究所を開き、製陶技術を科学的合理性で裏付けることに最後まで力を注いだ。彼は製陶業を一個の工業とし、その製造技術を新しい科学を導入することで合理化した最初の人であり、それはイギリスの産業革命の一端でもあった。

影青(インチン)

白色透明の薄い磁胎に淡青色の透明釉を施したもので、その釉が肌に刻まれた画花・陰花などの文様部に溜まって他よりも青く見えるので中国ではこれをインチンと呼んだ。近頃では青白磁と呼び慣らしているが、これは中国と欧米で青白(チンパイ)と称するようになったのでそれに応じたものである。昔は伝世遺品が少なかったので瓷学者の注意をひかなかったが、のちに中国各地から出土したのをはじめ、朝鮮高麗朝の古墳やわが国の経塚古墳、さらに南海・オリエントの無数の遺跡から出土して、その分布が世界的な規模に達していること、作品に優秀なものが多いことから一躍その名を高からしめた。そのインチンが大量につくられたのは宋・元の時代で、主産地は江西省浮梁県の景徳鎮窯である。しかし江南の江西・福建・広東の諸省では、早くから灰釉の還元焰焼成による青白磁風の瓷器が作られており、より古いインチンの存在も考えられるし、またその遺品には精粗さまざまの類別があることから、景徳鎮に以外にも産窯があったことが推測される。インチンの器種ははなはだ多様で花瓶・水注・香炉・瓶子の類から鉢・椀・皿・盃・合子に至るまで作られぬものはないほどである。上等品の場合、細緻な磁土で薄い胎をつくり文様を彫り、微量の鉄分を含んだ灰釉を掛けて還元焰で焼いている。この類は日にかざすと胎がすけて見えることが多い。時代が降つるにつれ器胎は厚手になり、文様を型押ししたもの、あるいは貼り付けやイッチンによったもの、ビーズ珠のような連珠堆線を貼り付けて文様としたものなど、施文法にも変化が出てくる。そしてこの末に青花・白磁、いわゆる染付が現れることになるのである。

青井戸

朝鮮産井戸茶碗の一種。全体的に青い色をしているのでこの名となっている。時に火色のでたもの、青色と赤味との片身替りのものなどがある。色合いが美しいのと数が少ないことにより茶人間で重宝されている。

通常は朝鮮産と考えられており、インドの青磁であるとか中国南部の青磁のうちの粗物であるとの説もあるが正しくはない。

土は鉄分を多く含み、釉はやや蒼黒く、概して貫入がない。

形状は平茶碗が最も多く、口径の寸法は大略15cm程度。高台は片薄で内に兜巾がある。

見所は開いた姿・かいらぎ・轆轤目にあり、見込の目跡・火変わりなどもそれぞれに喜ばれる景色である。この手の名物では雲井・宝樹庵・こだま・涼及・などが著名であるが、八文字屋・竹屋・升屋・柴田・蓬壷・松本・沢潟・四もと・義村・久田・藤屋・秋野・古今・隼・蓬來・初霞・鳴戸・金鳳などがある。

青備前

備前焼の一種で上品な青灰色をしたもの。青焼または青伊部ともいう。

明和(1764~72)から寛政(1789~1801)までにかけて最も名品を産出し、風流な趣あるものが多い。伊部窯の旧式大窖窯時代に作り出されたもので原料は普通の伊部焼と変わらないが、その含有鉄分が窯の中で適度に局部的な還元作用を受けたために出る色である。近代になってその大窯が廃止され普通の登窯式になってからは、青備前の珍種もできにくくなった。

赤絵

赤色を主調とする多彩の上絵付。釉の上に赤・緑あるいは黄・紫・青などのガラス質透明性の上絵具で文様などを少し盛り上げて彩色する。ただし、赤色だけは通常他の絵具と異なり、ガラスじょうではなく、また不透明で絵具層が薄い。一般に赤を主調として1,2の他の色を加え、どちらかといえば簡素で大胆な文様のものを赤絵といい、各絵具をさまざまに施し複雑華麗に彩画したものを錦と呼ぶがこれらを総称して赤絵という場合もある。赤は酸化第二鉄(紅殻)、緑は主に酸化銅でこれに酸化クロムを配合する。黄は酸化鉄と鉛丹と白玉とを混合して得、紫には酸化マンガンを、藍には酸化コバルトを用いる。

【中国】… 赤絵はまず中国で発達したものである。中国河北省か順徳府にある鉅鹿(きょろく)から出土した陶器の中に泰和元年と墨書した赤絵の皿があるが、泰和元年は金の年号で南宋の寧宗の嘉泰元年(1201)にあたる。皿にはごく簡単ではあるが非常に達筆に牡丹その他の草花・鳥などが描かれており、牡丹の花を赤、葉を緑で描き、皿の縁には黄釉が塗ってあり、宋の時代にすでに赤絵があったことがわかる。明の時代になると次第に発達し万暦赤絵・天啓赤絵・などが現れた。いわゆる南京赤絵・呉須赤絵は明の終わりから清の初めに作られたものである。清朝の康熙年代(1662~1722)には非常に上品な赤絵が発明され康熙赤と一般に言われているが、赤はもはや文様の主調ではなくなり他の色彩を多く加え赤の色彩は少なくなった。雍正・乾隆年代(1723~95)にはむしろ他の色が主体となって五彩あるいわ錦手と称するものが多くなった。

【朝鮮】… 高麗朝には赤絵はなく、ようやく李朝中期になってから初めてみられるが、現存するものは非常にすくない。

      あるいは、中国明の工人が来てつくったものでその工人が去った後は赤絵の製陶が途絶えたのではと考えられている。

【日本】… わが国の赤絵は正保(1644~48)の頃の備前国(佐賀県)南川原の柿右衛門の赤絵が最初とされ、ほとんど同じ頃古九谷に明様の赤絵があった。備前の赤絵の製法は十年と経たないうちに京都の仁清に伝わり、享和・文化(1801~18)の頃の京都の奥田頴川が呉須赤絵を模作して知られていた。呉須赤絵は京都を中心として永楽保全・和全・道八その他陶工たちによって摸倣され尾張国(愛知県)に移って瀬戸の頴渓、また犬山でも盛んに製陶された。その他赤絵を産出したものに古万古・薩摩・湖東・安東・九谷飯田屋などがある。

上野焼(あがのやき)

福岡県田川郡赤池町上野の陶器。遠州七窯のひとつである。

陶祖尊楷(上野喜蔵)は文禄・慶長の役(1592~8)に帰化した朝鮮陶工で、1602年に細川忠興が丹後国田辺(京都府舞鶴市)から豊前国小倉(福岡県北九州市小倉区)に転封された時、招かれて小倉に移り最初は城下の菜園場村に築窯した。1605年頃尊楷は上野に移り開窯したが釜ノ口・皿山本窯・岩谷などの窯跡があり、皿山本窯は明治年間まで続いた。

尊楷は1632年に細川家の肥後熊本城転封と共に長男・次男を連れて八代に移ったが、三男孫左衛門と娘婿久佐衛門と共に残り次の藩主小笠原家に仕えた。初期の作品には土灰釉・藁灰釉・鉄釉を使っており唐津や古高取によく似ている。後代には白釉地に上の青釉(銅緑釉)や三彩を掛けた作風を特色とし、この伝統が現在の窯でも行われている。古作は無印で、巴印は幕末頃から使われた。紫蘇手・玉子手・柚肌手なども後代のものだが、趣味家には喜ばれている。

伊羅保

古くから高麗茶碗の中に挙げられるが、中国製も、また南蛮物も混じっているといわれる。横に轆轤目の跡が際立ち、土の中の小石が火にはぜて、釉が荒れ手触りがいかにもいらいらしたものである。真清水蔵六の説は伊羅保は慶尚南道産であるとする。近年同地方で発掘した陶器にしばしば類似品を見るので、この説はほぼ信用できる。伊羅保は非常に種類が多く、古来茶人の称呼に千種、片身替り、釘彫、黄または黒伊羅保などの区分がある。後年釜山窯や対馬窯でその作品を模倣したものもこの中に混同したので時代に新旧があり、産地もまた諸方に分在している。その作品は粘土の中に雅致があり、最も茶人の間で愛翫された。名称については粗作で見た目にも手触りにもいらいらまたはいぼいぼする感覚があるので、通俗に伊羅保と呼び慣したものではないかといわれている。なおこの茶碗については茶人間に不思議な習慣があって、その素質の粗雑なのにも関わらず微細な疵をも嫌い、他の井戸茶碗などでは堅樋または疵繕いなど意に介さないのに対して、疵では最も厳重に嫌忌し、疵の有無が価格に関係することが他の茶碗と比べ物にならないのは、素質が粗雑であるためことさらその保存に万全を期する意味ではないだろうか。